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うつ病に巻き込まれる身体

いまや時は二月初めで、まだふらついてはいたが私は光の中に抜け出したことを知った。自分がもはや抜け殻ではなく肉体であり、肉体の甘美な活力が再び動き出すのを感じた。

- ウィリアム・スタイロン (作家)-

 うつ病の経過は多彩で自然に比較的短期に改善するものからなかなか治らない頑固なものまで十人十色の様相を呈します。

 ですから個人に「最適な治療」を選んでいくのもそう簡単なものではありません。

 今回はうつ病の治療について大雑把につかまえてみようという回です。

 精神の病に対する治療法は大きく「身体的治療」と「非身体的治療」に分けることができます。

 前者の代表が薬物療法や通電療法*で、後者に認知行動療法などの精神療法、作業療法、芸術療法などが含まれます。薬物療法に代表される身体的治療とは「精神と身体」を個人の複数の側面としてとらえ、身体の側からアプローチしてこころのあり方に変化を与えようという試みで、古くは1930年代の進行麻痺に対するマラリアショック療法などにその源流があります。薬や電気が直接身体の中から病気を治して行くイメージですね。

 近年のうつ病に対する一般的な治療はこれらを組み合わせて行われますが、実際どのように行われているのでしょうか?

 現在のうつ病治療に関して、我が国において最も詳細にまとめているのは日本うつ病学会が作成した治療ガイドライン

 http://www.secretariat.ne.jp/jsmd/mood_disorder/img/160731.pdf

だと思います。これは学会のホームページで公開されていて、どなたでも全文を読むことができます。

 このガイドラインは実に丁寧に記載されており専門家としては感服させられるのですが、専門家以外の人には他科のお医者さんも含めいささかとっつきにくく感じられるかもしれません。まあ、高血圧や糖尿病の代表的治療ガイドラインなどはもっと詳細で、こういう「一般的な長引く病」の多様さを反映しているのでしょう。

 さて、このうつ病の治療ガイドラインのなかで問題になるのはなんといっても「軽症うつの治療」でしょう。

 読んで字のごとく軽いうつ病ですから専門家以外のお医者さんが相談を受けることも多く、比較的治療が難しくないものと考えられるわけですが、このガイドラインでは軽症うつ病の治療を「最も慎重かつ困難な臨床判断が求められる」と記しています。その中身を真摯に読むと一般内科のお医者さんはちょっと治療を尻込みするのでと心配になります。

 細かなことはおいておくとここで特に難しいのは、「軽症のうつ病に薬を出したほうがいいか、出す必要があるか?」という問題です。世界各国で製作されたガイドラインでも意見が分かれています。たとえ軽症であっても薬はちゃんと役に立つというデータもあれば、ニセ薬(プラセボといいます)と何も変わらないというデータも存在するからです。

 中等症以上のうつ病では薬を使ったほうが良いことは世界中で一致した見解ですのでそうしますと問題は「うつ病がどのくらい重ければ薬が必要か」ということになります。

 結論から言ってしまうと「軽いか重いか」でどれだけデータを集めても結論など出ないと私は考えます。

 ガンの治療で例えると「ガンの大きさが何cmあるか」だけで治療の議論をしているようなものです。完全に無関係ではないので一見意味ある議論に思えるのですが、実際のガンの治療は「組織のどこまで達しているか」「転移はあるか」などの情報を集めて治療方法を決めていきます。小さくても深層に達していたり、すでに転移しているガンもあるからです。大きさだけではガンの全容はつかめないのですね。ちなみにううつ病の重症度は「評価スケール」という症状の点数表の得点で測られます。軽いと言うのはまばらにしか得点がつかないことを意味し、当然患者さんごとのばらつきも大きくなり適応の限界は明らかです。ガンの治療選択の決め手と同じような指標を、まだ医学はうつ病に見出していないのです。

 いやあ、ややこしくなってきました。

 ややこしいからといって、目の前の患者さんの苦痛は現実の今、眼前にある問題でほっとくわけにはいきません。

 その問題に対して私がどうしているかというと、比較的単純な原則に従ってお薬をお出ししています。

 キーワードは身体です。

 うつ病の症状の中核が「気分」というつかみどころのないものにあることは以前書きました。しかし、うつ病の症状は実に多彩で気分以外にも多くものがうつ病に影響されます。それは「意欲」や「思考」や「記憶」のようなこころの機能の多くに及びますが、最も多く認められるのは睡眠の障害です。睡眠は身体の生理的な機能で多くの重要な役割を持ちますが、眠れないことで多くのうつ病患者さんがとても苦しみます。他にも食欲が低下し便秘になりやすく、女性は生理不順になります。動悸や息切れ、めまい、冷や汗などが強く出ることも多々あります。うつ病の本体は脳の中にあると考えられますが脳と身体はホルモンや自律神経を介して密接に繋がっているため、うつ病は全身を巻き込みながら悪化していきます。こころの機能より身体の不調が前面に出るうつ病は古くから「仮面うつ病」と呼ばれています。正体を隠してやってくるうつ病という内科のお医者さんからの視点ですね。

 うつ病の治療の中で薬を使った薬物療法は「身体の側からうつ病を治して行くアプローチ」であることはすでに書きました。ゴールはうつ病全体の改善ですが、薬は身体に入ってまず、うつ病の身体の症状を取り去っていきます。眠れるようになり、動悸やめまいが減って楽になることを薬物療法を始めた患者さんはまず体験します。

 冒頭の言葉は作家のウィリアム・スタイロンが自らのうつ病体験を綴っった「見える暗闇**」から彼がうつ病体験から抜け出す感覚を書き記したものです。うつ病におかされていた身体から活き活きとした感覚が戻る様が書き記してありますが、うつ病は全身を巻き込む病なのです。

 うつ病の治療が始まり、身体が楽になるとそのあとに集中力や意欲といったこころの機能がゆっくりと回復していきます。病状全体の重症度に関わらず、身体の症状が明瞭にあればお薬が果たす役割は大きいと言えます。

 逆に言うと、いくら気分にうつがあり意欲が低下するなどの症状があっても身体の症状に乏しければ薬の出番は少ないと考えてよいと思います。こう言う場合にはやはり「非身体的治療」のほうが役に立ちます。

 と、ここまではうつ病の治療のとっかかりのお話です。

 今の自分に薬が本当に必要なのか、どんな役に立っているのかは治療の時期によっても異なってきます。うつ病から回復してくると「いつまで薬を飲んだらいいの?」という疑問がよく生じますが、このお話はまた別の機会に。

 あなた、ご家族のうつがどんな時期の、どんな状態であれ、疑問を感じたらここに書いたようなことを踏まえてどんなことでも担当の先生とよく話し合ってみることが大事です。

 あ、そうそう。 ときに「うちは薬に頼らない治療をします。」というのを謳い文句にしている精神科、心療内科の医療機関を目にします。魅力的な謳い文句かもしれませんが、なんでもかんでもというのは明らかに患者さんに不利益を生じさせますし、いざ必要に迫られて薬を出すとなると勉強していらっしゃらないのかハチャメチャと言うこともありますから頭の隅にでも入れておいて下さい。どんな道具でも使い慣れた人の方が明らかにうまく使いますから。

 *通電療法は古典的には電気けいれん療法と呼ばれますが、近年はけいれんを伴わないものが主流でこの言葉がそぐわなくなってきています。

 ** 見える暗闇 -狂気についての回想 ウィリアム・スタイロン 新潮社 1992

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